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彼岸花

 小学校六年の時であった。二人の姉の通う実科高等女学校に上野の東京美術学校を出られたばかりの鈴木俊平先生が図画の教師として赴任された。その指導は実に新鮮であった。それまでは図画の手本で描いていた授業が、俊平先生になってからは写生に変わった。

 先生はよく野外に生徒を連れ出されるのだが、傍から見るとそれは遊んでいるように見えただろう。

 ある日曜日、私は学校に先生をお訪ねした。先生は天龍奥の月村の出身で、宿直室に寝泊まりされていた。

 折しも九月の末、先生はホーロー引きの白い洗面器に真っ赤な彼岸花を束ねて写生しておられた。白い器のなかの燃えるような紅い色が子ども心にも不思議な美しさで、私はじっと眺めていた。

 しばらくして先生は写生の手を止め、画集を持って来られ、それをひろげながらいろいろと話してくださった。ゴッホの「ひまわり」やゴーギャンの「タヒチの女」という絵であったろう。それらは私にとって初めて知る絵の世界で、漠然と芸術とはどういうものかということを教えられたように思う。

<「バウルの歌」から>

絵本《いっすんぼうし》
絵本《いっすんぼうし》

デッサン

 10月7日 午前八時半、アッサムのサリーを着て、カラババンにゆく。教室にはサンタルの青年が坐すモデル。小柄な、割りにハンサムな青年なり。 ガングリー、その他、二、三の先生、二切り大の紙を板にとめて、デッサンである。

 鉛筆でなく、丁度一本用意してあった木炭(木炭は日本画用だ)。九時からはじめて、約二時間余、学生は私の描くのを見ている。ラクノーから来ている五年生の学生はなかなかうまい。休憩の時、彼をスケッチする。後でもう一人の学生をスケッチする。

<「バウルの歌」から>

*チャイ(Chai、チャーイ)は茶を意味する言葉。一般にはインド式に甘く煮出したミルクティーを指す。不矩がいれるチャイは甘すぎたが。

<Y記>

絵画:タゴールの自画像
タゴールの自画像

シウリ

 10月3日 大学は水曜日が休みなり。郵便局、バンクは日曜日が休み。洗濯石鹸を買いたいので、サーバントにきくと、ショップは休みではないという事で買いにゆく。

 ポストオフィスの横を曲ってゆくと、女の子が木の下でアルミの器に何か拾って入れている。見るとシウリの花である。五年前のケララのタンピさんの家で見たシウリ、朱色の軸の愛らしい小さな花、私も拾う。匂い、そこはかとないいい匂い。子供は母親にいいつかって神に供えるために拾っているのだろう。

 ショップはやはり休みで網戸が締まっていた。横に茶店があって、男たちが腰かけている。私も「チャア」といって腰かける。茶は二十五パイサー。

<「バウルの歌」から>

絵画:シウリ スケッチ
シウリ スケッチ

ガンガー

 「ビスバ・バーラティ大学」の任期を終えて帰国前のひとときを私は知人の住むビハール州パトナで過ごした。それは雨期到来の六月、豪快なスコールの襲来する季節だった。既にガンジスの河は増水して海のように広がり、2マイル先の対岸は水かさにかき消されて見えない。浮草、流木を交えて、滔々と流れるガンジスの濁 流を私は毎日、ガートに立って眺めた。

 ある日、その濁流の黄褐色の波間に黒くイルカが跳ね上がり、たちまち波の下に消えた。その一瞬が大河ガンガーを象徴して、深く心に残った。後日、「ガンガー」の図にかき込んだのも、その印象が忘れられなかったせいである。

<「バウルの歌」から>

絵画:渡河 スケッチ
渡河 スケッチ

バウルの歌

 『私の胸には長い間鼠が巣くっている。私はその鼠を追い出したいのだが、一向に立ち退かない。ああ、いつの日にこの悪魔は立ち退くのだろうか。

 私は川の流れに漂っていること久しい。右の岸に上がろうとしても上がれない。左の岸によっても上がることが出来ない。ああ、このうえはただ神の思召しにまかせるより外ない。

 私は希望を持っている。鳥が水中の魚を狙うようにいちずにその願いを求めて追っている。けれどもなかなかその願いを掴むことができない。もうどれだけの時がたったであろうか。ああ、ただ神の思召しにまかせるより外はない。』

 詩人タゴールも幼少の頃からバウルの歌に親しんでいた筈である。タゴールの詩に共通したものが感じられるように思った。私は歌をカセットテープにとって帰り、時々インドの絵を描きながらそれを聞いている。

<「バウルの歌」から>

絵画:「バウルの歌」から
<「バウルの歌」から>