*チャイ(Chai、チャーイ)は茶を意味する言葉。一般にはインド式に甘く煮出したミルクティーを指す。不矩がいれるチャイは甘すぎたが。
<Y記>
故郷の天竜川の砂浜は真っ白であり、その河原に横たわる女体の量感と、動きのある童児(長男)を組み合わせて構成した。
1) 紅い系統の色の着物を着た女性を、円形の構図で描きたかった。これは構成的な図で、赤のあらゆる色を使って配色した五人の女人像である。
2) 裸婦のモデルを使い、裸体の起伏を、女性の艶かしい肉体の表現というよりは、むしろ固くて、力強く、顔などは省略した構成で試みた。少しドライな絵。
3) 少年のまだ成熟し切らない肢体の新鮮さがよくて描いたもの。この時初めて構成していく仕方や色の表現方法が分かってきた。ガラスのようなものに着色したザラザラした絵の具で描いた。
4) 次男の、成長した青年のみずみずしい肢体に魅力を感じ、薄い青で、若い清新な感じを出して、象徴的に描いた。
彼岸花
小学校六年の時であった。二人の姉の通う実科高等女学校に上野の東京美術学校を出られたばかりの鈴木俊平先生が図画の教師として赴任された。その指導は実に新鮮であった。それまでは図画の手本で描いていた授業が、俊平先生になってからは写生に変わった。
先生はよく野外に生徒を連れ出されるのだが、傍から見るとそれは遊んでいるように見えただろう。
ある日曜日、私は学校に先生をお訪ねした。先生は天龍奥の月村の出身で、宿直室に寝泊まりされていた。
折しも九月の末、先生はホーロー引きの白い洗面器に真っ赤な彼岸花を束ねて写生しておられた。白い器のなかの燃えるような紅い色が子ども心にも不思議な美しさで、私はじっと眺めていた。
しばらくして先生は写生の手を止め、画集を持って来られ、それをひろげながらいろいろと話してくださった。ゴッホの「ひまわり」やゴーギャンの「タヒチの女」という絵であったろう。それらは私にとって初めて知る絵の世界で、漠然と芸術とはどういうものかということを教えられたように思う。
<「バウルの歌」から>
初めてインドの風景に接した時の作品。シャンチニケータン近郊のサンタル村の落日。地平線に沈む前の一瞬、沼に映った太陽は二つとなって輝いていた。
1) シヴァ神は、ヒンドゥの三大神の中で最も地上的で、また土着的な神でもある。これはシヴァが行をしている姿。シヴァは荒々しい所もあるが、救済の神でもある。天からガンジス河の水が流れ下る時に、大地が壊れないようにシヴァが頭で受けて、髪の毛の間から分けて大地に下ろしたという。
2) 女子学生のダイアナンダさんが、日曜日の朝、真紅のストールを着て訪ねてきた。ハッとする美しさだったのでスケッチして描いた。
水が満々とガンジスを流れ、向こう岸も見えなくなり、さながら海のようになる。雨期を待ち、その滔々たる流れの壮観を見るためにビハールの州都・パトナーへ行き、ガートに立って眺めた。スコールは黒雲を呼び、はるかな流れの中に渦巻き、広い河幅のこちらには陽が照っていてイルカが跳ねるのが見えた。
デッサン
10月7日 午前八時半、アッサムのサリーを着て、カラババンにゆく。教室にはサンタルの青年が坐すモデル。小柄な、割りにハンサムな青年なり。 ガングリー、その他、二、三の先生、二切り大の紙を板にとめて、デッサンである。
鉛筆でなく、丁度一本用意してあった木炭(木炭は日本画用だ)。九時からはじめて、約二時間余、学生は私の描くのを見ている。ラクノーから来ている五年生の学生はなかなかうまい。休憩の時、彼をスケッチする。後でもう一人の学生をスケッチする。
<「バウルの歌」から>
*チャイ(Chai、チャーイ)は茶を意味する言葉。一般にはインド式に甘く煮出したミルクティーを指す。不矩がいれるチャイは甘すぎたが。
<Y記>
アフガニスタン・バーミアン遺跡から更に70kmほど北上するとバンジャミールという高地がある。高地の砂漠は乾いた白い岩山地帯で、水の色が空より青くて、この世のものとは思えない紺碧の色をたたえて連なっている。
ベンガル地方にはレンガなどの資材が無いため古いテラコッタ(素焼き)の寺院が多くある。ヒンドゥーの神々の像、説話物語等をレリーフに彫って焼いたテラコッタの陶板を、壁や柱にびっしりとはめ込んだ寺院である。
1) 家の中庭の中心に、神様を描き、その周りにはアブストラクトの絵で、「いいサリーが買えますように」「いいお婿さんがきますように」と願いをこめて娘が描く。そして幸福が家の中に入って来るように神様の足跡が家の中に続く。サラサラの白い粉で描かれ、祈りが終ると消されてしまう。
2) ヤクシャ、ヤクシニーはそれぞれ仏教守護の男神、女神である。仏教以前から民間信仰の対象でもあった。聖樹の下にヤクシニーが宿ると言われ、有名な豊饒のシンボルである。
シウリ
10月3日 大学は水曜日が休みなり。郵便局、バンクは日曜日が休み。洗濯石鹸を買いたいので、サーバントにきくと、ショップは休みではないという事で買いにゆく。
ポストオフィスの横を曲ってゆくと、女の子が木の下でアルミの器に何か拾って入れている。見るとシウリの花である。五年前のケララのタンピさんの家で見たシウリ、朱色の軸の愛らしい小さな花、私も拾う。匂い、そこはかとないいい匂い。子供は母親にいいつかって神に供えるために拾っているのだろう。
ショップはやはり休みで網戸が締まっていた。横に茶店があって、男たちが腰かけている。私も「チャア」といって腰かける。茶は二十五パイサー。
<「バウルの歌」から>
マドバニ村落の家。壁一面には、人々を楽しい気持ちにさせてくれる生命の樹が描かれている。屋根は赤土を焼いたレンガで、黄土の壁が広がり明るい感じがする。
インドを汽車で旅行をすれば、駅に止まるごとにホームに群がる赤いシャツに赤いターバンをつけたクーリーの姿を見かける。客の荷を持てるだけ肩と頭上にかついで運ぶ姿が一生懸命で、実に生き生きとしている。
1) ヴィシュヌプールのテラコッタ寺院の外側をめぐる廻廊。夏の暑い日、非常に強烈な午後の陽射しが差し込んでいて、野良犬が寝ている。まばゆいような太陽の光を金箔で、それを表現してみた。
2) ここはマトゥーラー、デリーの南を流れるヤムナ河の対岸。渡し船に乗って向こう岸に着くと、河畔にはイスラムの部落があり、女は自分の手で上壁をぬっている。壁土は牛糞と泥を混ぜてこね、すべて手でする。デワリヤプージャの前に、また結婚式を祝うために門や家を新しい土で塗り清めるのである
空が抜けていて、傍らに石柱が立ち、廟の前には牛の像。その中には男女の像が立てかけてある。平原の茫漠とした荒れた野原の真ん中にある廃墟。4年間も雨が降らず、草は乾燥しきって白けている。
ガンガー
「ビスバ・バーラティ大学」の任期を終えて帰国前のひとときを私は知人の住むビハール州パトナで過ごした。それは雨期到来の六月、豪快なスコールの襲来する季節だった。既にガンジスの河は増水して海のように広がり、2マイル先の対岸は水かさにかき消されて見えない。浮草、流木を交えて、滔々と流れるガンジスの濁 流を私は毎日、ガートに立って眺めた。
ある日、その濁流の黄褐色の波間に黒くイルカが跳ね上がり、たちまち波の下に消えた。その一瞬が大河ガンガーを象徴して、深く心に残った。後日、「ガンガー」の図にかき込んだのも、その印象が忘れられなかったせいである。
<「バウルの歌」から>
南インド、マイソールに近いべルールのヴィシュヌ神を祀るチェンナ・ケーシャヴァ寺院の廻廊。立っているのは女神ナギニー。壁にはナーガがビッシリ描かれている。
聖なる河、クリシュナ河が氾濫して、滔々と流れている。水牛が向こう岸の放牧されていたところから帰って来るところを毎日見ていた。氾濫しているので頭だけだして泳いでいる。最初、クリシュナ河を描くつもりだったが、洪水のため、カルカッタに近いダヤ河を描いた。
1) インドにはいろんな牛、水牛がいる。泥のような水たまりで水を浴びている。とてもグロテスクな姿だが、泥水と牛が良かった。この作品は、少しすっきりしすぎた。もっと泥臭く、ゴツゴツした水牛を描きたかった。
2) オリッサのブバネシュワールの郊外にウダヤギリ、カンダギリという山が2つある。ウダヤギリには、ヒンドゥとジャイナ教の僧が、瞑想したり、読経したりする場所が、自然石をくりぬいて造られている。その入り口の柱の間に女神が立っていた。右肩には鳥が止まっている。
バウルの歌
『私の胸には長い間鼠が巣くっている。私はその鼠を追い出したいのだが、一向に立ち退かない。ああ、いつの日にこの悪魔は立ち退くのだろうか。
私は川の流れに漂っていること久しい。右の岸に上がろうとしても上がれない。左の岸によっても上がることが出来ない。ああ、このうえはただ神の思召しにまかせるより外ない。
私は希望を持っている。鳥が水中の魚を狙うようにいちずにその願いを求めて追っている。けれどもなかなかその願いを掴むことができない。もうどれだけの時がたったであろうか。ああ、ただ神の思召しにまかせるより外はない。』
詩人タゴールも幼少の頃からバウルの歌に親しんでいた筈である。タゴールの詩に共通したものが感じられるように思った。私は歌をカセットテープにとって帰り、時々インドの絵を描きながらそれを聞いている。
<「バウルの歌」から>
オリッサ州、ブバネシュワールにあるリンガラージャ寺院、ラージャラーニー寺院、パラスメシュワル寺院の3つの寺院を組み合わせて1つにした作品。かなり前から構想していて、3枚のバランスがとても難しい。
インドの雨期は6月〜7月ごろである。その雨期の季節には、モンスーンが発生して突風にあおられる。砂漠の上空で、遠くの方で雨が降り、だんだんと雲が迫ってくる様子を描いた。
最晩年にアフリカを訪れ、いくつかの作品を描いた。2001年の秋、93歳で亡くなるまで絵描きであることを全うした。<Y記>
作品名 | 制作年 | サイズ(cm) | 初出展名 | 所蔵先 |
---|---|---|---|---|
砂上 | 1936(昭和11) | 162.0×214.0 | 新文展鑑査展 | 京都市美術館 |
紅裳 | 1938(昭和13) | 208.0×174.0 | 第2回新文展 | 京都市美術館 |
少年群像 | 1950(昭和25) | 117.7×147.5 | 第3回創造美術展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
坐す | 1953(昭和28) | 95.0×114.2 | 第6回創造美術展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
青年立像 | 1956(昭和31) | 146.1×109.2 | 新制作春季展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
平原落日 | 1964(昭和39) | 54.5×130.0 | 秋野不矩展 | 京都市美術館 |
行者シヴア | 1978(昭和53) | 113.0×90,0 | 新制作春季展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
インド女性 | 1964(昭和39) | 119.6×51.2 | 秋野不矩展 | 静岡県立天竜高等学校 |
ガンガー(ガンジス河) | 1979(昭和54) | 148.0×266.5 | 第6回創画展 | 靜岡県立美術館 |
カミの泉Ⅱ | 1976(昭和51) | 124.0×256.0 | 第3回創画展 | 京都国立近代美術館 |
テラコッタの寺院 | 1984(昭和59) | 123.0×155.0 | 秋野不矩自選展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
中庭の祈り | 1984(昭和59) | 129.5×134.5 | 秋野不矩自選展 | 京都市美術館 |
女神ヤクシニー | 1980(昭和55) | 111.0×53.0 | 朝日画廊5周年記念展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
土の家(生命の樹) | 1985(昭和60) | 124.0×240.0 | 第12回創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
たむろするクーリー | 1984(昭和59) | 94.5×294.0 | 第11回創画展 | 静岡県立美術館 |
廻廊 | 1984(昭和59) | 151.3×101.0 | 京都春季創画展 | 静岡県立美術館 |
壁を塗る | 1984(昭和59) | 118.5×118.5 | 秋野不矩自選展 | 静岡新聞社 |
廃墟Ⅱ | 1989(平成元) | 127.0×275.0 | 第16回創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
廻廊の壁画 | 1986(昭和61) | 140.2×206.7 | 第13回創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
渡河 | 1992(平成4) | 143.0×365.0 | 秋野不矩 インド展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
沼 | 1991(平成3) | 133.6×162.4 | 京都春季創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
ウダヤギリⅠ | 1991(平成3) | 150.0×95.0 | 第18回創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
オリッサの寺院 | 1998(平成10) | 122.0×705.0 | 浜松市秋野不矩美術館 | |
雨雲 | 1998(平成10) | 119.0×209.0 | 第25回創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |
砂漠のガイド | 2001(平成13) | 99.0×133.0 | 京都春季創画展 | 浜松市秋野不矩美術館 |