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手書きマップ:インド

訪問した年
  • 1962

写真:シャンチニケータン カルカッタの北西150kmボルプール町のシャンチニケータンに「ビスバ・バーラティ大学」はあり、不矩は客員教授として1年滞在した。

 2マイル四方の広大な敷地に校舎はすべてインド式家屋。マンゴーの木の下には白いベンガリー服を着た教授が坐り、学生たちは車座となり、黒板を一枚立て野外の教室としていた。<不矩記>

図版:マップ(不矩手描きの地図)
マップ(不矩手描きの地図)

図版:タゴール
タゴール「詩稿ノート」

 一九六一年七月、西ベンガル州、シャンチニケータンにあるラビンドラナート・タゴールが創立の、ビスバーバラティ大学に客員教授として渡印することになった。シャンチとは平和、ケータンは村。私か到着したとき、タゴールは既に亡く、彼の生誕百年記念の祝典が催されていた。日本人を親愛したタゴールのために活け花をしてくれとのことで、折しも今が盛りというウットラヤン(タゴールの苑)に咲き乱れる色とりどりの花を採り、活けたのである。

 私は大学付属のゲストハウスに投宿することになった。七月のインドはまことにすがすがしく、ハイビスカス、ブーゲンビリアが咲きはこり、夾竹桃の紅、白、ピンクが葉陰にそよぎ、サルスベリ、百日草、松葉ボタン、ダリアなど、それらは日本でも見かける花だが、一段と色鮮やかで大輪だった。

 点在する家々は土の家で、垣根にはクチナシの白い花が咲き、ジンジャー、ジャスミンがそこここに芳香を放っていた。
緑の森のなかに見える白亜の館はタゴールが詩作に耽ったという住まいで、今は記念館となっている。そこにはタゴールの生涯を語る資料、写真、詩作した部屋があり、タゴールに関する世界各国の著書が国別に陳列されていたが日本は一番少なかった。
特に演劇好きの彼が、若き日に自ら扮装主演した舞台姿など魅力的なポーズの写真は印象的であった。

 二階に上がると、その壁面に十数枚の絵が掲げられていた。
それはタゴールが七十歳を過ぎてから始められた絵で、それを見たときの衝撃はいまだに忘れられない。何という不思議な世界、時代を越えた抽象、幻想、魂と直結した深い生命力―—当時のベンガル画家の作風とは根本的に異なる表現で、このように新鮮な作品をインドに発見したことは、実に大きな驚きであった。

 その作品は、初め彼が詩の行間に削除の手を入れるときのインクの線がアブストラクトのような形になったのが始まりで、それが鳥になり、蛇になり、異様な動物に変形してゆき、女になり、男となり、次第に風景とか人物のポートレートなどに展開されてゆく。自画像や男や女のポートレートなども深い人間性とインスピレーションを秘めていて素晴らしい。

 タゴールは自分の絵について「絵が黙っているように、私は説明など出来ない。絵は表現するが、言葉をもって叙述するものはなにひとつない」と語っている。<不矩記>

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訪問した年
  • 1962
  • 1971
  • 1974

ルートマップ 1

マップ:ルートマップ1

《ウダイプール》 パレスは非常に大きく五階か六階ある。上から市街を見渡すと一面白亜の街で大へん美しい。点々と緑の樹木があり、青の搭が近くに立ち、明るく乾いた白い街である。大学はホテルの近くに二つあるが、それらは昔のパレスの建物で、ガバメントも、大きなオフィスも、凡て白い石で作られており、ウダイプールの強い王がモスリムの迫害に闘った歴史がある。

 湖上の2つのパレスは夏の宮で、今は大きい方のパレスがホテルになっている。

 夕方六時から約一時間、時間外だったが特別にボートをだしてくれ、私一人で湖上に出た。この時間は丁度、夕陽が落ちる時刻で湖上はすばらしく、海に向かって並んでいる象の彫刻もパレスの中のガーデン、凡てよかった。

 湖上を青、緑のインコの群れが渡り、パレスのガーデンの木々に鈴なりになってチクチク啼いていた。

 充分に心満ちて薄暗くなったパレスの坂を下り、街に出てタクシー(10ルピーもとられた)でホテルに帰る。<不矩記>

《バンジャミール湖》 バーミヤンから更に70キロ北の、高地の沙漠とはいえかわいた白い岩山地帯である。そこに五つの泉が湧き出ていて、まことにこの世のものとは思えない紺碧の色をたたえて連なり、折しも初冬、雪も間近という季節であったから岩肌の大地の白と、湖の青、空の青と二色のみである。車が一つ起伏を越えると眼前に湖が現れる。

湖の青は空の青より深く、夏でもその水温は5度という。

自分は五つの湖を一図に連ねたいために天上から眺めた様に描いた。然しあの崇高な美しさを思う時、冒涜といわざるを得ない事を愧じる。<不矩記>

図版:1964《湖上のパレス》
1964《湖上のパレス》

手紙〜ケララ州トリバンドラムより

 マドラスをゆっくり味わってからケララに向かいました。実はもう少し未練がありましたが、ケララでは雨期が始まりかけていることを知り、更に今後二三ヶ月のヘビーレインの季節に入る事を知りましたので、いつまでもマドラスに居られない気がして八日に出発した次第です。

 そして今朝トリバンドラムに着き、ラマの友人タムピさんが小さな息子さんにバラの花を持たせて私達を迎えてくれました。

 ケララはインド大陸とは大分違った感じです。マドラスのホテルから見下ろしたほこりっぽい裏町の黄色いボソボソズルズル汚いボロをまとった人間は一向に見当たりません。皆、小ざっぱりした衣服で何か仕事に向ってサッサと歩いている姿です。あのなつかしい力車は一台もなく、つまり何かあの力車などと言う屈辱的な存在は許さない社会の様です。

 和気アイアイと共に過ごした力車がまかり通ったあのマドラスの市街が哀しくも懐かしまれます。

 然しここに来ていよいよ壁画の撮影という大仕事にかかるのですから、そんな感傷も味わってはいられないのですが。

 ケララの凡てのヒンドゥ寺院はヒンドゥ教徒でないと内部へ入る事が出来ない事を前々から承知していましたので、ガイドの青年とヒンドウ教のミッションに行き、その許可証を得ました。

 その為にも吾々はヒンドゥ教徒としての身なりを整えました。女はサリーを、男は上半身裸で下はドゥティをまといます。革製品は一切身につけません。

 今日の夕方五時、吾々はヒンドゥ寺院でプレイの時間に証明書をもらってお祈りに出ます。これからはずっとこの証明さえあれば全インドのヒンドゥ寺院に参堂することが出来る様です。

《中略》

 カタカリダンスが到着の日の夕方にあって早速に一見しました。このパントマイムはなかなか味わいがあり、日本の浄瑠璃に当たる様な唄い手が語り、扮装のものものしくメイキャップ豊かな、パントマイムでラマクリシュナやラダが出てくる。

 ケララは一見に値します。トリバンドラムはケララの首都で大へん美しい街です。何か独特の文化を感じます。自然はヤシが茂りミクロネシアの様です。

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図版:ドゥティ

手紙〜ニューデリーより

 私は今日、ラマと一緒にクマール・ギャラリーに行き、タントラアート、タントラアサナ、タントラヨガ、それからもう一冊新しい本を買い、船便で送って貰う様にしましたから、二三か月後にそちらに着く事と思います。受けとって本を見て下さい、いい本です。インドのものは別に直接に私には役に立ちません。それはヨーロッパでも同じ事だと思いますが、ただよく考えるヨスガになると思います。

 これからラマとたずねるインドのフォークアート(村人の絵です)は実に自由、ホン放で楽しく これこそ芸術といえる本質的なものの様に思います。然しそれとても他山の石で、私自身の世界は別です。ただ今日一日一日と失われてゆくもの、まだ在るものが如実に解りますね。いろいろなものに触れて ただよく考えて見たいだけですから、もう少しウロウロ歩きます。

 ケララの仕事を終えてフリーになり度い、 二十五日にパトナに向かいます。そして独りで、ガンガ、雨のガンガ、満水の黄河を見るのが 今唯一の楽しみです。

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訪問した年
  • 1977
  • 1982
  • 1986

ルートマップ 2

マップ:ルートマップ2

《サンチ》<葉書き> 8日の夜8時頃サンチに着いた。田舎の駅で力車も何もない。暗くてよくわからんので駅の前に灯のついていたこのゲスト・ハウスにすぐ泊まりました。セイロンの僧が主人で日本語で「どうぞお泊り下さい」との事でここにずっと泊まります。仏教徒ならフリーということです。毎日すぐ近くのサンチ・ヒルの丘にのぼり、スツーパを見て廻っています。スツーパは第一、第二,第三とあり、丘の上は広大な遺跡があり、とても静かなフンイキです。これは第一スツーパの門の柱にある仏陀の生涯の物語のレリーフです。(木は仏陀のシンボルです)      

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絵ハガキ:サンチ 葉書き
絵ハガキ:仏陀の生涯の物語レリーフ

《ギルナー山》 グジャラートの中部ジュナガートという古い街の北方に、ギルナー山という岩山がある。この山は街から見るとただ一つの山に見えるのだが、頂に立つと、その後ろに峰を連ねて計五つの岩山がつづく。丁度日本の富士山ように、インドの人たちは、老いも若きもこの山に杖をついて列をなして登る。登っては谷に下り、また頂に向かってジグザグをくり返す。並々ならぬ行である。最初の峰にはジャイナ教寺院が建ち、後に連なる峰にはヒンドゥの祠がある。<不矩記>

手紙〜オリッサ州コナラクより

 昨日手紙をだしてから、マンゴーの事を書くのを忘れた事を思い出した。いつか貴下が神戸からとてもおいしいマンゴーを買って来てくれて食べましたね。インドは五月からはじまって六月が最盛期、もう直ぐマンゴーは終ります。最盛期のマンゴーはとてもおいしいです。一つ1RP位です。マンゴーもいろいろと種類があって、色が黄色くなるのと少し赤味を帯びるもの、緑のままのもの、形も大きいのや小さいの、丸いのや一寸細長いものいろいろある。六月の初めゴピナツさんの果樹園に行った時、実り始めのマンゴーの初生りを食べたのは新鮮でとてもおいしかった。

 マンゴーはこんな風に枝から下がっています。最盛期の熟したものは全くおいしい。皆に食べさせ度い。インドの最高の果実ですね。プーリーの店に山と積んでありました。これはセイが強いのであまり食べるとオデキが出来る位です。

 それから手紙を書く度に忘れたのですが、ゴピナツさんのまだ学校に行ってない子供二人に「クリシュナの剣」と「金色の鹿」を送ってほしいのです。おねがいします。

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文:マンゴーは

訪問した年
  • 1988
  • 1991
  • 1993
  • 1995

ルートマップ 3

マップ:ルートマップ3

《マドバニ村》<壁画> ビハール州の北端、ミテイラ地方にマドバニ村がある。ネパールの隣で歩いてゆける位置にある。家毎に内壁や外壁、塀などに一面に絵が描かれている。信仰する神の姿、カーリー、ドルガ、ラクシュミー、クリシュナ、ラダ等、又鳥や草花、像や牛、羊、など身辺の全てのものが楽しく遊ぶように描かれる。これは特にプージャ(祭り)やデワリ(正月)結婚祝い等のために新しく描きかえられる。白い漆喰に、絵の具は以前は自然の草の汁とか炭の粉で描かれ、落ち着いた渋い味のある美しさであったが、現在はケミカル染料で色鮮やかに描かれている。絵は凡て女たちの手によって描かれる。<不矩記>

図版:マドバニ
マドバニ

《コナラク》 スーリャ寺院の石積み寺院建築のスタイルは、6世紀後半頃の中部インド(デカン高原)で成立した。中でも最後の時期に属し、最大規模を誇るもっとも壮麗 な建物と精緻 な彫刻で知 られる。ヒンドゥー教にミトゥナ像があらわれるのは、単なる生理的感覚的な喜びではなく、真理にふれる喜び、現象的なる人間が実体的なる神と一体となることを感得する宗教的歓喜にほかならない。生きる喜びと力に満ちた思想は、絵画、彫刻、音楽、文学などの芸術的表現ともなり、時代を超えて傷ついた心を癒すのだ。<Y記>

<参考・HP 「インドの旅」

図版:コナラクの女神
コナラクの女神

手紙〜ハイデラバードより

 アマラバティは大へんいい処でした。昔のスツーパの跡があり、すぐその傍のゲストハウスに泊りました。
 アマラバティのそばにクリシュナ川が広大に流れています。この水はナガールジュナコンダから流れて来ているのでした。黒い水牛や白い牛が一群をなして朝この川を渡り(深い処は泳いで)、夕方また帰って来るのでした。この牛の群れが川を渡るのを、そばのヒンドゥ寺の展望台から眺めるのはすばらしかったですし、クリシュナ川はガンガとちがって青くきれいに見えました。
 それはその川の傍のシヴァ寺院の沐浴場にもなっており、朝夕、沢山の人々が沐浴や洗濯をしています。
 同行のペルモルさんも、ある朝そこで水浴して洗濯もしました。然し彼は汚い水だったと言っていました。

 それから、今は秋で気候はいいのですが、私にとってはとても暑いデカン高原をバスで走り、ナガールジュナサガーに着きました。昔はナガールジュナコンダといったのが、今は大きなダムが出来、クリシュナ川はさえぎられて大きな湖が出来てしまいました。
 それで今はナガールジュナサガーといいます。
 コンダ・・・丘の意、サガーは海の意です。このダムの為、山の上にあったスツーパも水に没して、その山が現在一つの島となり、そこにミウジアムが出来てスツーパの遺跡をとどめています。
 このミウジアムに行くにはボートで一時間もかかります。
 このサガーはあまりにも広く、私の絵にするイメージにはほど遠いものでした。どうもうまく出来そうもありません。夕方や朝の水の色はいいのですが、とてもまとまりません。
 むしろ、クリシュナ川の方がよいかと思うのです。

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ハイデラバードよりの挿絵

訪問した年
  • 1996
  • 1997
  • 1998
  • 1999

ルートマップ 4

マップ:ルートマップ4

《ジョードプル》 旧市街の家屋の壁が青く塗られている事から「ブルー・シティー」と呼ばれる。メヘラーンガル砦はジョードプルを見下ろす高さ130mの岩山に建つ砦で岩山の上に、36mもの城壁が築かれている。1459年にラーオ・ジョーダ王がジョーダの町のシンボルとして建設し、その後の増改築で豪華な王宮や寺院が砦内部に建ち並んでいる。<Y記> 参考・Wikipedia

《チリカ湖》 は、カルカッタの南にあるオリッサ州のベンガル湾に面したインド最大のラグーン(汽水湖)、面積はおよそ日本の琵琶湖の2倍。水鳥の越冬地、イラワジカワイルカの生息地としても知られる、生物多様性の豊かな湖である。周辺には132の漁村があり、住民のうち70%が漁業によって生計を立てている。しかし1980年代以降、森林伐採による土砂流入を発端として、湖は浅くなり(水深4m)、湖口が埋まった結果狭くなり、淡水化が進み漁獲量が激減した。<Y記>

参考・HP1.nifty.com/rcj/Japanese/ajiawetland…/chilika.htm

図版:渡り鳥 「バウルの歌」から
渡り鳥 「バウルの歌」から

訪問した年
  • 1969

ルートマップ 5

マップ:ヤップ島/ウルシー島
Wikipediaから

《ヤップ島/ウルシ―島》

「思想の科学」 親子対談 1985年3月号

癸巨矢ほら、一九六九年に僕らがミクロネシアへ石貨の調査に行ったとき、インドと違うところも、いっぺんくらい行ったらいい思うて、来たやろ。

不矩ええ。

そしたらきつい船酔でウルシーいう島にひとり残ることになった。あそこにどのくらい居たんやった?

皆は、いろんな島を調査に行くから、私は船が来たらもう本島に戻ろうと思ってたんですけど、待っても待っても船が来なくってねえ、無線も何も入らなくて。半月くらいだったかねえ、村長さんの家に居させてもらったの、でも良かったですよ、ウルシーの島の生活をつぶさにみることができて。

村長さんは日本語がしゃべれたんやなあ。日本領やったときがあったから。

ああ、ウルシーで良かったのは、ウェル爺さん。刺青の名人の。

今は禁止されてるけど、酋長とかそういう人は全身刺青してたんや。

村長さんの家の裏に猫と暮らしててね、私もしばらく気がつかなかった。タロ芋をひとりで掘って静かにつつましくね。ウェル爺さんは日本語はしゃべれなかったけど、少しドイツ語ができたのかな。

うん、ミクロネシアは最初スペイン領になって、次がドイツ領で、その次が日本で、今はアメリカ。

私は言葉は何もわからなかったけれど刺青のやり方を、それはていねいに教えてくれるんですよ。刺青の墨にする木の実がシーズンだったこともあって、それを焼いて砕いてみせてくれてね。とても緻密ないい色で、それはみたところは黒いのだけど、体にすりこむと青くなるんですって。

―――ここで不矩さんは刺青の仕方を
三十四分にわたって説明―――

どうしてだか、私みなわかりましたよ。ウェル爺さんも全身刺青でね、誰かにしてもらったんでしょうが。幾何学模様がまるでアブストラクトのようで・・・すばらしかった。私、何枚かウェル爺さんをスケッチさせてもらいました。昔は方々の島から刺青してもらいに来ていたそうですよ。もう八十歳くらいかしらねえ。私が訪ねてゆくとね、ウェル爺さんといっしょに猫がね、ちゃんとタロ芋の煮たのを食べてるの(笑)。

ところで、お母さんはミクロネシアの絵は何か描かはりましたんか?

スケッチじゃなくて・・・・・・・あっ、一枚描いたじゃありませんか、ほら墓場の風景を。

フン、一枚だけか、墓石に真っ青なトカゲのいるやつね。ミクロネシアには描きたいと思うもん、無いんか?インドにはいっぱいあって。

いえ、そんなことないけれど・・・・・・ただね、私はインドの土が好きなんですよ。インドの人たちは、ほんとうに土に根ざした生活をしているなと思う。

写真:子どもたちと
子どもたちと
図版:絵本 《アアウをとってこい》
絵本 《アアウをとってこい》

訪問した年
  • 1995
  • 1996

ルートマップ 6

マップ:アンコールワット

《アンコールワット》

アンコールワットのパレスに向かう敷石の道の右側にスラスラン池がある。この池は昔、王様の沐浴場であり、その岸に石の二頭の獅子が並んでおり、頭が七つあるナーガ(竜神)も鎮座している。その獅子の稚拙 な後ろ姿が好きであった。<不矩記>

写真:ルートマップ6

一般社団法人秋野不矩の会

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