秋野不矩の公式WEBサイト

不矩を語る

「渡河と女仙人」

梅原 猛

 私が特に秋野不矩さんと親しくなったのは、1972(昭和47)年、京都市立芸術大学に勤めたときからであるが、教授会での席が私と隣なので、秋野さんとはいろいろ話をした。そのころから秋野さんはインドによく行かれ、やがて定年で大学を退官されると、インドへ行ってしまってなかなか帰ってこられなかった。私は、秋野さんはインドにすっかり溶け込んでインドの人になってしまうのではないかと心配であった。おそらくインドの人は秋野さんを決して日本人とは思わなかったのではないか。インドにはお互いに言葉の通じない多くの種族がある。それでインドの人も、秋野さんを何か言語を異にするインドの種族の一員であると思って、とりわけ深い親近感を感じたのではなかろうか。

 私はずっと秋野さんのインドの絵を見てきたが、年とともにその絵は深くなるのである。 80歳を超えてからのインドの絵は特によい。私か特に感心したのは「渡河」という絵であるが、これは満々と水の流れる河を水牛が渡っている絵である。秋野さんの話を聞くと、あるとき秋野さんは洪水で満々と水の流れる河を見たという。そしてまたあるときに河で水牛が泳いでいる風景を見たという。その二つの風景を組み合わせて、洪水で水が満々と流れる河を水牛が数頭泳いで渡っている絵を描いたという。私はその絵に悠久たる天と地を感じるのである。その悠久たる天と地の接点である河を水牛が懸命になって渡っている。それは、悠久たる大地の中で必死に生きている生きとし生けるものの生命の姿を象徴するかのようである。

 考えてみれば、そのような洪水の河を水牛が渡るはずはない。それは現実に起こっている風景ではなく、秋野さんの頭の中で二つの風景を組み合わせて作られたものであろう。しかしそれはあたかも実際そういうことがあるかの如く、迫力ある絵である。私はこの絵を見たときに驚きを覚えた。そして80歳を超えてこのようなすばらしい傑作を描く秋野さんのエネルギーにつくづく感心したのである。

 それから少し後、私か所長をしていた国際日本文化研究センターの講堂の緞帳にどのような絵を選ぶかということが検討されたとき、私はこの絵を思い出したのである。国際日本文化研究センターはたしかに日本のことを研究するところであるが、あのいかにも日本でございますという日本画は、広く国際的視野で日本をみようとするセンターに似合わない気がした。さりとて洋画はもうひとつ似合わない。それで何にするか悩んだのであるが、この秋野さんのインドの絵ならば、東洋の大地の悠久さを示すもので、まさに国際日本文化研究センターの精神にぴったりである。

 そう考えて、秋野さんに、国際日本文化研究センターの講堂の緞帳の絵に「渡河」を借用したいとお願いしたところ、秋野さんは快く承諾してくださった。今もこの緞帳は国際日本文化研究センターの講堂にあるが、それを見た諸外国の研究者はいっせいに、これはこの研究所にふさわしいよい絵であると言う。

 一昨年、秋野さんの個展があった。驚いたことに、またひとつ秋野さんの絵は雄大になったのである。インドの大地に何気なくヒンズー教の塔が立っている絵がある。それは何百年も経つ古い塔であるが、実に堂々と大地の上に立っていた。私はそれを見たとき、この塔は秋野さんそのものであると思った。インドの大地の上にひとり誰にも頼らず、誰にもおもねらず、世の毀誉褒貶を超えて、ひとり立っている塔、そういう塔を描けるのは、このような古い塔そのものになりきっている秋野さんしかないと私は思った。

 秋野さんはまさしく女仙人である。仙人は無欲な人にしかなれないが、私の知っている人のなかでもっとも無欲な秋野さんはすばらしい絵を描く女仙人になったのである。

哲学者

原典:
『文化勲章受章記念 秋野不矩展』
(毎日新聞社、天竜市立秋野不矩美術館 2000)

挿絵

「湿り気が嫌い」

藤森照信

 このたび、静岡県の天竜市に〈天竜市立秋野不矩美術館〉が完成した。その設計を手がけた者として、あれこれ考えたことを述べておきたい。

 秋野さんの絵の実物をはじめてまのあたりにしたのは、92年に東京の佐賀町エキジビット・スペースで開かれた個展の時だった。「渡河」をはじめとするインドの大作がところ狭しと並ぶ会場に足を踏み込み、絵に湿りがないのに驚嘆した。「渡河」は川の景を描いているのに、川面には湿気が漂っていない。こんなに乾いた日本画と出会ったのははじめてだった。

 さて、設計がはじまり、私は、市が用意してくれた土地の特徴を生かすべく、二つの尾根の間の谷にダムのようにして美術館を建てることを提案した。そんな美術館は世界にないし、自然の景観との関係という点でもなかなか面白い。

 図面を描き、模型を作り、不矩さんに見ていただいた。最初はアイディアの斬新さに興味を示されたが、日がたつにつれ難色を示されるようになる。理由を聞いてもどうも要領を得ない。あれこれやりとりした後、2人で一緒に現地を見て考えようということになり出かけたのだった。

 現地の谷というか沢は、杉と檜が手入れをされずに密集して空をおおい、地面には陰地性の植物が生え、間を水がチョロチョロと流れている。暗くて湿った場所。

 もちろんこれらを払って、明るい谷にして、ダム状に建物を作り、最上部を美術館に当てる予定だから、けっして暗く湿ったところではなくなるのだが、目の前の谷間の様子では、そう説明する私の言葉もなかなか説得力を得ない。しばらく、ちらちらと梢の間にのぞく青空を見上げたり、じめついた草の上を歩いたりしていると、不矩さんはフッと小声でつぶやかれた。

 「こんなところに埋められたくない」

 この一言が決め手となって、私は美術館の敷地を谷から尾根に上げることを決意した。

 そう決めて、しばらくたたずんだ後、暗く湿る谷を背にして下りはじめ、谷の出口まできたところで振り返ると、奥のちょうど建物を予定していたあたりに光が差し込み、その周りだけつかの間、明るくなり、美術館の建物の透明な輪郭線がクモの虫のようにフツと現れて消えた。谷がはなむけに見せてくれたんだと思った。涙がにじんだ。

 この経験から考えるのだが、不矩さんの湿り気への忌避にはただならぬものがある。日本の気候風土の一番の特徴は温帯モンスーンならではの湿りにあり、この湿りが日本の四季おりおりの花鳥風月を生み出し、日本画はそれを画題として成立しているのだが、どうも、その辺が好きでないらしい。この湿り気嫌いが深いところにあって、不矩さんは乾いた地を求め、インドの大地を発見したんじゃあるまいか。

建築史家、建築家

原典:
『卒寿記念 秋野不矩展-インド 大地と生命の讃歌-』
(毎日新聞社、天竜市立秋野不矩美術館 1998)

土の家(生命の樹)
土の家(生命の樹)

「秋野さんのこと」

井上 靖

 秋野さんに初めてお会いしたのは、いつのことであったか憶えていない。私は昭和10年に毎日新聞大阪本社に入り、23年に東京に移るまでずっと美術記者をしていたので、その間に何回かお会いしているのではないかと思う。

 はっきりと秋野さんのことを記憶しているのは、23年1月に『創造美術』が結成された時である。東京に於ての結成式のあと、京都寺町の「スタア」で、これまた結成の集いがあったが、その時福田豊四郎氏がその席上で“いい年齢(とし)をして、このようなことを始めましたのも、——”と言ったその時の表情と、秋野さんの嗚咽に耐えておられた姿が、今も私の眼底には仕舞われている。

 今になって考えると『創造美術』の結成は、終戦直後の日本が生み出した夢と、理想と、既成の秩序に対する批判とを盛った、美術界に於けるただ一つの事件であった。併し、単なる美術団体の結成でもなければ、単なる既成画壇への反抗でもなく、大きい時代の転換期に当然生まれるべくして生まれた、若い有為な日本画家たちの結束の誕生であったのである。この団体の出現には、どこかに自然なものがあり、新しい時代の到来を思わせる純粋にして新鮮な魅力があった。

作家

原典:『-女流画家インドを描く-秋野不矩自選展』
(毎日新聞社 1985)

挿絵

「秋野不矩の人と芸術」

木村重信

 秋野不矩との交際は、私が1953年に京都市立美術大学に勤め、同学となって以来である。もとより、秋野は私の大先輩であるから、芸術や生き方について教示を受けるのは一方的に私の側であった。にもかかわらず、秋野はつねに親しい友人として私を扱った。長い交際を通じて私が感じたことは、秋野のいうこと、なすことに真実があるということである。さらにいえば、個々の言辞や行為の意味を了解する前に、その人柄から来る真実を肌身で感じたことである。

 秋野の絵画には、初期から知的な意想があった。そして日本画を近代化したいという思いが、西洋絵画の構成や彩色の研究へ、さらに「創造美術の結成」へ赴かしめた。例えば、裸の少年群像を、黄で(1950年)黒で(1954年)青で(1956年)と言う具合に、力強い筆致で大胆に描いた。これらの少年たちの頭部や足などは、画面からはみ出しているが、それはまた日本画の領域をはみ出し打ち破る試みでもあった。このような長年の精進が、後年、インドにおいて美しい大輪の花をさかせたのである。

 若い頃、秋野は「太陽が真上から直射する炎天下、救いようのない熱さの中でわっと泣いている裸の子ども」を描きたいと思った。1962年、ビスバ・バーラティ大学客員教授としてインドに行った秋野が見たのは、このような情景であった。特に秋野が関心を抱いたのは、先住民のドラヴィダ族が住む貧しい村々であった。このことは秋野が描く民家に、彼らの風習である壁画が見られることからもわかる。かくして朽ちはてた廃寺や神像、泥河と水牛、庶民の生活など、インドの大地の香りや人びとの哀歓をたたえる、雄渾な絵画がつくられた。しかもこれらのインド連作の背後には、帝展初入選の『野を帰る』(1930年)で、赤ん坊を背に麦畑を歩む朝鮮人の若い母親に寄せたのと同じヒューマニズムが流れている。インドを見る、この目線の低さ故に、たとえ人物が画面に登場しなくても人気を感じさせるのである。司馬遼太郎が「菩薩道のような」と評した所以である。

 秋野は離婚し、5男1女を育て、2度も自宅が火災で焼失するという悲運にあったが、そのたびに甦り、その画業をますます深めていった。脱皮し、変貌し、飛躍する―この上なく真摯な芸術家の典型が、ここにある。

元兵庫県立美術館長

原典:『秋野不矩展-創造の軌跡-』
(兵庫県立美術館、毎日新聞社2003)

1930《野を帰る》
1930《野を帰る》
スケッチ
スケッチ

「黄色の生命力」

大岡 信

 秋野不矩の絵で最も印象的な色彩は、何といっても黄色であり、黄金色である。日本の画家で、これほど豊饒な黄色を、その多彩な変幻ぶりを見せてくれた画家は、私の乏しい見聞の範囲では、他に一人も思いつかない。

 ヨーロッパ近代の画家たちを考えてみても、思い当たる人の数はまことに限られている。ゴッホ、ゴーギャン、ボナール、またルドン、クリムトと数えてきて、そのあとがほとんど思いつかないほどである。もちろん、どんな画家にせよ黄色は使う。私か言いたいのは、黄色をその画家自身の精神的必要の鮮烈な表現として用いている画家は、意外なほど少ないのではなかろうか、ということである。秋野不矩の独自性は、この点で際立っている。黄色は彼女にとって、大地の色であると共に、ある確固とした精神状態の表現でもある。

 秋野さんの黄色は、とりわけ1962年、54歳にして初めて、ベンガルのビスババーラティ大学に交換教授として1年間滞在した時以来、まさに湧然として彼女の内部から湧き上がり、画面に遍満しはじめたもののように思われる。言うまでもなく、それ以前でも、たとえば1936年の「砂上」や1950年の「少年群像」のような代表的な作品において、黄色はすでに印象的な現れ方をして秋野作品に棲みついていた。

 けれど、それらにくらべても一段と輝きを増した黄色が、インド体験ののち、秋野さんの絵に湧き上がってくる。それはもはや押しとどめようのない力の噴出、としか言いようのない光景である。

 その早い時期の現れは、たとえば1964年の「インド女性」に見られるが、真紅のサリーをまとって立つ深く強いまなざしのインド女性を押し包むようにして、単純でしかも深い黄金色が背景をなし、秋野不矩をとらえてしまった黄金色の魅力を、問わず語りに雄弁に語っている。

 黄色・黄金色の魅力は、秋野さんの絵の場合、生命力を豊かにたたえながら静かに光り輝いている永遠的なものの魅力、というように言ったらいいだろうか。それは「静かなる豊饒」の世界である。その目で見ると、ゴッホの輝かしい黄色は、多弁な黄色である。ゴーギャンのタヒチで描いた絵に見られる黄色は、秋野さんのインドの黄色とどこか共通したものがあるような気もするが、秋野さんの絵に遍満する静かなる豊饒、悠々たる成熟の要素には、意外に乏しいのである。ゴーギャンの黄金色は、精神のある激しい飢渇の表現だったようにさえ思われる。

 秋野不矩のたび重なるインド旅行と制作は、秋野さんの年齢を思い合わすと、ただただ驚異的である。その間、彼女は、常に坦々として、まったく当たり前の日常生活を、ベンガルその他の奥地でも営んできただろう。言いかえれば、観光客的な目であたりをのぞき、見回す立場には、最初からただの一度も立ったことはなかった。彼女の描き続けてきた絵が歴然とそれを証明している。

 秋野不矩は、実際、たとえば壮大なアンコールワットに対しては、興味をひかれた細部を描くことはしても、特別の敬意を払った形跡はない。けれど、オリッサの小さな寺院に対しては、陶酔にも似た愛着を、何十年間も抱き続けてきたのではなかろうか。

 オリッサの寺院は、つい最近も、幅7メーターを越える大作を秋野さんに描かせたが、この最新作(1998年)においても、秋野不矩の豊饒な黄色は、相変わらず暖かな分厚い存在感をたたえて、観る人を包みこんでくる。

 この黄色は、インドの土の色、石の色である。だがまたこの黄色は、日輪の色であり、卵黄の色であり、つまりあらゆる生命の根源をなすものの色でもあるのだ。秋野不矩の黄色は、実に具体的な色だが、常に精神世界の表現である色なのである。

詩人

原典:『卒寿記念 秋野不矩展-インド 大地と生命の讃歌-』
(毎日新聞社、天竜市立秋野不矩美術館 1998)

《ナーガー・ナギニー》
《ナーガー・ナギニー》
神様の欠片 スケッチ
神様の欠片 スケッチ